旅公演で拾った話 青木力弥(俳優)
以前に、俳優として舞台に立つからには何か勉強しなければ、と思い立って、洋舞、日本舞踊、声楽等バイトの暇を縫ってレッスンに通った。中でも発声の訓練にと、狂言の門をくぐった。千駄ヶ谷の国立能楽堂や銀座能楽堂にも立たせてもらった。
自分の出番のお狂言が近付くと、お家元の前に出てきちんと正座をし挨拶をして、向き合いながら、しばらく心を落ち着かせて出番を待ちます。この時間が大切なことは重々解かっている積もりですが、ただただお家元の威厳に圧倒されて身が縮む思いでした。
終わってから、反省会を持ちますが、ある時、「新劇の皆さんは、同じ出し物を何日もおやりになりますが、それはどうでしょうかね…」とお話が出ました。むろん私は、公演は一週間でも一ヶ月でも、ロングランになればなる程良いと思っていましたから、その時には心に留めませんでした。わたしはひたすら、舞台に通用する発声法を会得したいと思っていましたから…。発声法というような技術的な勉強の接し方に対して、登場人物のキャラクターも含めた人物形象とその舞台をどのように生ききったか、に注意を払わない私たちに意見を述べられたのではないかと後で気がついたのですが。能、狂言の舞台は多くは一回で、その舞台を生ききる、燃焼する、そんな事も仰ったような気がします。
『喜劇キュリー夫人』
左から 後藤陽吉 黒柳徹子さん 筆者 千賀拓夫
今は、『喜劇キュリー夫人』の公演中です。旅のはじめの楽屋で、メーキャップをしながら、何故か、ふと「何回もおやりになりますが…」あのお話が脳の片隅から甦ってきました。『喜劇キュリー夫人』のシュッツの役の、言ってみれば、今日一日の舞台をどのように生きるつもりか?と、問われたような気がしました。ドラマの人間と四つに取り組め!と。
人間のこのしたたかなる生き物、を理解し表現するには生半可では出来ない、時間がかかる。
【時間が欲しい】と言ったら稽古場の片隅から「今まで十分に時間はあったではないか」という声が聞こえてきました。【それならばもうちょっと若さをくれ】と叫んだら「それは君の不勉強を実証するようなもんだ、人間も理解できないで生意気なことを言うな!」
雷のような声が落ちてきました。