創立50周年に向けて@

「青年劇場草創期とシェイクスピア」


参加者
 瓜生正美 劇作・演出
 松波喬介 演出
 福島明夫 製作
聞き手
 高安美子 俳優
 青年劇場は二年後の2014年に創立50周年を迎えます。今日の劇団がどのような道を辿ってきたのかを振り返りつつ、劇団のこれからを考える企画第一弾です。 今回は、9月東京公演『十二夜』を前に、シェイクスピア作品で旗揚げした劇団の草創期、そして今回の見どころを中心に話し合う座談会を開きました。



第1回公演「真夏の夜の夢」(1967年)
撮影:中川招一郎

高安  青年劇場は1964年の5月1日に都立市ヶ谷商業高校の体育館で『真夏の夜の夢』で初めて幕を開けましたが、青年劇場が旗揚げ公演になぜシェイクスピアを選んだかということからお聞きしたいのですが。


瓜生正美(うりゅうまさみ)
北九州市若松区生まれ。土方与志に師事。1964年、7名の仲間と共に、青年劇場を創立。1997年まで代表を務め、現在は顧問。
社団法人日本劇団協議会会長、日本演出者協会理事長など歴任。主な脚本・演出作品に「真夏の夜の夢」(演出)「海をみていたジョニー」(脚本・演出)「青春の砦」(脚本・演出)「カムサハムニダ」(脚本)「呉将軍の足の爪」(演出)など。近年は「オールド・バンチ」一座で舞台出演するなど、俳優としても活躍。

瓜生  僕は1947年以来の土方与志の弟子で、戦後としては一番古い弟子ですが、最初に何本か助手についたのがシェイクスピアだったんです。土方さんは、「シェイクスピアは最大の演劇学校だ」と言っていた。一つには、一つの場所、時、筋という、古典劇の「三一致の法則」を破ってもっと自由闊達に、より人間の生き様を深めて書いたという、ドラマツルギーの革新性。もう一つはイギリスルネッサンスと言われる16世紀の大きな時代の変革期に、革新の側に立って物を見、描こうとしたという創造上の立場の問題です。僕も劇団創立メンバーも舞芸座でそういう教育を受けていたもんで、シェイクスピアを何本かやろうということになったんですよ。それからね、上演する時は役者さんのことを考える。僕は、あいつはこれ、こいつはこれと、役どころとしてみんなそれぞれはまり役があって力を発揮させうるという点で、『真夏の夜の夢』を選んだ。

高安  青年劇場は学校での団体鑑賞公演でスタートしているんですよね。

瓜生  自分たちで東京のお客さんを集める力もないし、そうせざるをえなかったんですよ。東京公演をやったのは三年くらい後かな。

松波  四百ステージ以上やってるんだよね。『真夏の夜の夢』と『十二夜』で。

瓜生  シェイクスピアを選んだ理由のもう一つは「演劇で飯を食う」というテーゼを掲げていたんで、できるだけたくさんの公演回数をやる必要がある。でも量を確保するには一定の質がなければできない。皆、努力した。いろんな意味でシェイクスピアは良かったんですよ。

高安  学校でお芝居を見せるということとシェイクスピアがうまく合致した。

瓜生  「人間万歳」という作品の中身も良いが、シェイクスピアだったら、校長先生だって教頭先生だって、それほど抵抗なく、見せてもいいなという隙間を狙ったということでもあったかも知れないね。

高安  学校公演で生徒さん達がどのように観たかという記憶は…。

瓜生  その当時の学校の状況そのものが、何のために人間は生きるべきかとか、一番大事なことを教えないで、上の学校に行くための教育にだんだん変化した時代だった。学校教育の変わり目の所からスタートしているから、子どもの全面的な発達をめざす教育を守るという点でもすごく意味があった。授業の一つとして、「演劇教室」という言葉が定着するのは少し後のことだから、実施すること自体が大きな意味があったし、たたかいであったと言えますね。生徒たちは、とにかく授業の中では味わうことのできないある種の解放感をもって大いに笑って喜劇を楽しんでくれてたよ。

高安  その後、『十二夜』『ロミオとジュリエット』、ミュージカル『真夏の夜の夢』『尺には尺を』と続いていくわけですけど、二作目に『十二夜』と考えたのは?


第2回公演「十二夜」(1968年)

瓜生  『十二夜』の方が作品の出来としては面白いからやりたいと思ってたんだけど、『真夏の夜の夢』を手伝ってくれた人の大部分が劇団に残ってくれたので人数的にも、キャラクター的にもやれるようになった。
 でもね、演劇で飯を食おうと思っているから、公演やめて稽古するわけにいかないんでね。その頃は一班活動だから、稽古は全部、旅の中でやりました。
 当時、富山県の定時制高校で主事をしておられた※1村上教俊先生が、西養寺のご住職でもいらして、富山県あたりを『真夏の夜の夢』で学校公演しながら、お寺にタダ同然で泊まらせてもらって。その西養寺の本堂で『十二夜』の稽古をさせてもらったんだよね、二十日間くらい。で、東京に帰って仕上げて、これも学校公演からスタートした。

高安  茨木憲先生が『十二夜』東京公演(1968年)のパンフレットの中で「正直言って、発声や体の動きにはもっと自由な柔軟さが欲しいとは思う。しかしよく言われるシェイクスピア的溌剌さといわれるものがどこからきているか、その気持ちを一番よくわかることができるのは、日本に数多くある新劇団のなかでこの青年劇場の人たちだ、とあえて言ってよいと思う」と書かれているんですよ。

瓜生  ほめすぎだけど。やはりシェイクスピアのイギリスルネッサンスのイデオローグっていう立場をしっかりと踏まえて、今日の日本の現実を、より人間が人間らしく生きられる方向に変えていこうという目的を持ってやっている。学校の現状だって変えていこうと思ってやってるんだという心意気を感じ取ってくださって共感してくださったんだと思う。その頃はね、教育の原点、「民主的人格形成」の立場で頑張ってる心ある先生達が多かったからその人達を頼っていって上演を勝ち取っていった。事前指導なんかもきちんとやって下さったし、それも成功の要因だね。

高安  再来年の2月16日が劇団の創立50周年にあたるんですね。それで、今年の9月に久々に『十二夜』を上演するんですけど、今の時代と『十二夜』というところを松波さんから。


松波喬介(まつなみきょうすけ)
北海道札幌市出身。1969年入団。飯沢匡氏に師事。主な演出作品に、「チリ1973年」「遺産らぷそでぃ」「もう一人のヒト」「死と乙女」「帝国の建設者」「シャッター通り商店街」「結の風らぷそでぃ」「青ひげ先生の聴診器」など。

松波  今日、非常に閉塞感の強い状況が広がっていますよね。長い不況の中で格差社会が拡大し、孤独死や無作為な殺人などの現象も見られます。その中で、人間解放を掲げたルネッサンスの時代に書かれたシェイクスピアの、しかも喜劇をやるというのは大きな意味があると思うんです。3・11があって未来に希望を持ちにくい社会で、一時「芝居どころじゃない」という風潮もありました。でも歌や踊りや演劇が人々を勇気づけ、夢を持つ力になっています。笑い、喜劇はそういう役割をそもそも持っているわけですから、そういうものとして、あえてこの時期に『十二夜』をやるということです。
 初演では休憩を入れて三時間かかっているんですが、できれば二時間半くらいで収めたい。スピーディーで大いに笑える、その笑いが未来へのエネルギーにつながる、そんな舞台をつくれればいいなあと考えています。

福島  瓜生さんが『十二夜』の初演の時に書かれた文章に、若者たちが「『恋と友情』に生き抜くことによって、自らをしばる絆を断ち切り幸せを掴んでいく」とありますね。

高安  すごい若々しい文章ですよね、力強い。

福島  今でいえば、ともすれば押し潰されそうな閉塞状況だって変えていける、そういうしたたかさやエネルギーをもっている、と感じてもらえる舞台にしたい。

高安  いま、結婚だって恋をすることだって無理なんじゃないかって思っている人のパーセンテージがすごく高いですよね。若い人たちの中で。したくない訳じゃないんだけど、できない。出会いがないっていうこともあるんだろうけど、財政的経済的基盤がないっていうのはやはり大きな要因みたいで、そこで諦めてしまう。


福島明夫(ふくしまあきお)
東京都出身。1977年入団。以来、「翼をください」「真珠の首飾り」「シャッター通り商店街」、また今年は「臨界幻想2011」「明日(あす)、咲くサクラ」「十二夜」など、多数の公演製作を手掛ける。1988年より製作部長、1997年より代表。現在、(公社)日本劇団協議会専務理事、(公社)日本芸能実演家団体協議会(芸団協)理事、日本新劇製作者協会理事。

福島  社会のあらゆる場面で、一人一人の持ち分というか、この人がボスでこれが部下でと細分化されて、キャラクターが決められてしまう。そういうことにシェイクスピアの変革のエネルギーで風穴があけられるといいと思いますね。

松波  伯爵の令嬢が兄の死を悲しんで七年間喪に服するといい、公爵の求婚を断り続けているのですが、その令嬢が公爵の遣わした美少年の使者を見たとたん、ぽーっとなってひと目ぼれしてしまう。この美少年は実は男装した女性なんですよね。「公爵はお嬢様を愛し、男で女の私は公爵に夢中、お嬢様はかんちがいして女で男の私に首っ丈」という奇妙な三角関係ができてしまう。「ああ、時よ、お前の手にまかせるわ、このもつれた糸を解きほぐすのは」というこの大らかさは、いかにもシェイクスピアらしいですね。脇筋の「伯爵家の執事いじめ」の風刺は痛烈ですが、それでも、どことなく大らかな人間臭さにあふれています。この大らかさみたいなものを現代人は忘れてしまったのかなあ。

福島  飯沢匡先生が「武器としての笑い」のなかで笑いの質について書かれているけれど、シェイクスピアの笑いっていうのは基本的に健全だと思うんですよね。どんな悪巧みだろうが。

瓜生  笑いって色んな笑いがあるんですよね。非常に感覚的な笑いから、一番高度な笑いっていうのは、正しい立場から間違ったことを笑う。『十二夜』の中にも高度な笑いが、感性的な笑いの組み立ての中にちゃんと根底に座っている。それがシェイクスピアの凄いとこで、まさに今日の芝居だと思いますね。

松波  できるだけ、現代の、観ている人たちが違和感を持たないように、衣裳なんか少し近代に引き寄せたものにしたり、舞台全体をシンプルなスタイルで描きたいと思っています。


高安美子(たかやすよしこ)
東京都出身。前進座附属養成所卒業後、1976年入団。
近年の出演に、「ケプラーあこがれの星海航路」「シャッター通り商店街」「普天間」など。9月公演「十二夜」にマライヤ役で出演。

高安  私が芝居を職業にしたいなと思ったのは、高校一年の時に、日生劇場でロイヤルシェイクスピア劇団の『真夏の夜の夢』を見たからだったんですね。人間賛歌っていうか、生きていくことそのものを良しとされているという気がして、これを職業にしたいなって。私は自分のことがあまり好きじゃなかったんだけど、私がいてもいいんだとすごく思わせてくれたお芝居だったんですよね。今本当にいろんなことに縛られて先が見えない時代だけれど、自分達が生きていくことを肯定できるような舞台になればと思います。私は、マライヤという、お姫様ではない、とても魅力的な役で、生き生きとした人間が出来ればいいなと思っています。なんか選手宣誓みたいになっちゃいましたけど。

松波  シェイクスピア劇は世界中のどこかで年に何十本か必ずやられている、それくらい演劇的な魅力がある。人間を惹きつける要素があると思うんですよね。飯沢先生はこの『十二夜』を「一口でいうと明らかにアチャラカである」と言っている。理屈こねるんじゃなくて、とにかく笑って楽しめることがまずは一番であると言ってらした。私もスピードのある、のびやかな、はずんだ笑いの世界を創りたい、しかも品格を失わないアチャラカ芝居?を。全体を道化の目からとらえて、現代的な風刺性も表現できたらと。

高安  期待に応える芝居にしましょう。

2012年6月14日劇団会議室


青年劇場のシェイクスピア作品上演の記録



「ロミオとジュリエット」1971年
(撮影:宇田和義)


「真夏の夜の夢」(ミュージカル)1975年
(撮影:宇田和義)


「真夏の夜の夢」1989年(撮影:萱野勝美)


「尺には尺を」2006年(撮影:蔵原輝人)
「真夏の夜の夢」

訳=坪内逍遥 演出=瓜生正美 美術=松下朗 照明=辻本晴彦 衣裳=土方梅子 音楽=羽生正吾 合唱指導=小林福治 合唱=グループ・ルーチェ 音響効果=八幡泰彦 振付=本多静雄 舞台監督=堀口始 宣伝美術=渋谷草三郎 製作=土方与平

1964年5月1日〜1969年 全国巡演
1967年9月 第1回公演 厚生年金会館小ホール 3日間4ステージ

合計304ステージ


「十二夜」

訳=坪内逍遥 演出=瓜生正美 美術=松下朗 照明=辻本晴彦 音楽=いずみたく 衣裳=土方梅子 音響効果=小島恒夫 フェンシング指導=三井山彦 振付=小林美智子 舞台監督=堀口始 宣伝美術=大塚勇、中島美奈子 製作=土方与平

1965年〜1970年 全国巡演
1968年4月 第2回公演 豊島公会堂 杉並公会堂 4日間7ステージ 

合計189ステージ


「ロミオとジュリエット」

訳=三神勲 演出=瓜生正美 美術=松下朗 照明=山内晴雄 音楽=いずみたく 衣裳=河盛成夫 音響効果=山本泰敬 演出助手=西沢由郎 舞台監督=堀口始 宣伝美術=大塚勇 製作=土方与平

1971年9月 第8回公演 日本青年館ホール 5日間6ステージ
以後1973年まで全国巡演

合計152ステージ


「真夏の夜の夢」(ミュージカル)

脚本・演出=瓜生正美 美術=松下朗 音楽=いずみたく 作詩=山川啓介 振付=堀内完 音響効果=山本泰敬 照明=横田元一郎 歌唱指導=河崎美智子 舞台監督=鳥飼博志 宣伝美術=伊東弘春 演出助手=松波喬介 製作=伊東潤二

1975年3月 第15回公演  厚生年金会館小ホール 日本青年館ホール 4日間5ステージ
1976年11月再演 日本青年館ホール 1ステージ
1976年まで全国巡演

合計284ステージ


「真夏の夜の夢」

脚本=瓜生正美 演出=瓜生正美、中野千春 美術・衣裳=松下朗 照明=横田元一郎 音響効果=石井隆 作曲=いずみたく 振付=大原晶子 音楽監督=近藤浩章 歌唱指導=河崎美智子 舞台監督=宮崎靖 宣伝美術=ピープル 製作=関根秀介、宮部明

1988年〜1990年 全国巡演
1989年4月 第47回公演(青少年劇場) 前進座劇場 朝日生命ホール8日間10ステージ

合計284ステージ


「尺には尺を」

訳=小田島雄志 演出=高瀬久男 美術=伊藤雅子 照明=鷲崎淳一郎 音響効果=藤田赤目 衣裳=前田文子 演出助手=白石康之 舞台監督=青木幹友 製作=福島明夫 製作助手=大屋寿朗

2006年5月 第91回公演 紀伊國屋サザンシアター 8日間12ステージ

合計12ステージ