第118回公演

「きみはいくさに征ったけれど」


大西弘記=作 関根信一=演出

2018年3月13日(火)〜18日(日)
紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA
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 軍国主義一色の窮屈な時代でもユーモアとペーソス溢れた詩を書き続けた竹内浩三。彼は何を思い詩を書き続けたのか…。格差社会といわれる中、自分の居場所を見つけられない現代の青年に、彼の行き方はどの様に映るのか。脚本は竹内浩三と同じ伊勢出身で、劇団TOKYOハンバーを主宰し、社会のひずみを若者の目線で描き続ける大西弘記氏。演出は旗揚げ26年となる劇団フライングステージを主宰する関根信一氏。全国の青少年へ舞台を届け続ける青年劇場と初めての出会いになるお2人に、作品への思いを寄せて頂きました。



竹内浩三と僕と青年劇場と演劇

大西弘記

 竹内浩三がフィリピンのルソン島で戦死してから33年後、彼が生まれた伊勢市で僕も生まれた。今回、彼を題材に「きみはいくさに征ったけれど」を書いている途中、とっても強く思ったのは僕が生まれる33年前、僕が生まれた国は戦争をしていたということ。
 そして、彼が戦争で死んだ23歳という年齢の時の僕は、伊藤正次演劇研究所というところで演劇を学ぶ日々だった。好きなことをやれる、追いかける自由が僕にはあったけれど、彼にはそれがなかった。その時代に生きていた人たちには自由がなかったのだと知識としてはあったけれども、彼の残した詩から痛切にそれを感じた。
 39歳になった僕は、時代に与えられた自由と対峙しながら、23歳で戦死した不自由な彼を書けば書くほど知る≠ニいう感覚よりも出逢う≠ニいう感覚のほうが、しっくりときた。何故だろうと考えた。劇中に描かれている伊勢という街で、僕も彼と同じように暮らしていたからかもしれない。それとも彼が残した詩から「生きていることは楽しいね」という言葉の意味を僕自身が探していたからかもしれない。
 僕の出逢いの定義は、さよならをする時に、また逢いたくなる存在であること。
 演劇を始めて18年が経ち、舞台に立ちたかったはずの僕は、舞台から降りて戯曲を書くことを選んで生きている。時々、本当に時々、自分が何故、今、劇作という仕事に辿りついたのか、その訳を探すけれど、ひとつの答えを今回の青年劇場さんとの創作で見つけたような気がする。

 大西弘記
三重県伊勢市出身。
2006年、自らの作品を上演するためTOKYOハンバーグを立ち上げる。
社会問題を取り扱いながら、その優しい感性で注目を集める。
「最後に歩く道」で2015年度サンモールスタジオ選定賞最優秀演出賞を受賞。
近年では、2016年「愛、あるいは哀、それは相。」(作・演出) 、2017年「KUDAN」(作・演出)、劇団ポプラ「チョコレート戦争」(作)など。




竹内浩三という人

関根信一

 竹内浩三の詩を最初に知ったのは「骨のうたう」でした。ピースリーディングで読ませてもらったものです。「戦死やあわれ 兵隊の死ぬるやあわれ 遠い他国で ひょんと死ぬるや」。「ひょん」ってなんだろう。独特な言葉の選び方が印象に残りました。ほかの詩や日記を読んでもやっぱり気になります。「僕もいくさに征くのだけれど」では、出征前の気持ちを「こうしてぼんやりしている」とつづり、戦争に行っても「なんにもできず 蝶をとったり 子供とあそんだり うっかりしていて戦死するかしら」と続けています。「ぼんやり」「うっかり」。のんきに響くこの言葉が、ひと回りしてとてもせつなく感じられます。23歳で戦死したとされる彼の生涯は、映画へのあこがれも恋愛も、実る前に終わってしまっています。たくさんの夢を抱えたまま、そのすべてを戦争によって捨てなければならなかった彼。僕には、彼の残したものはもちろんですが、残せなかったものもかけがえのないものに思えてしかたありません。映画監督になりたかったでしょうし、結婚もしたかったかもしれません。そして何より、生きて家族のもとへ帰って来たかったでしょう。残された記録は、起こったこと、事実だけを教えてくれます。では、彼が残したくても残せなかったものはなんだろう。形のない、そんな彼の思い。今回の舞台で、竹内浩三という人にあらためて出会って、考えてみたいと思っています。

 関根信一
東京都葛飾区出身。
1992年、「ゲイの劇団」劇団フライングステージを旗揚げ。
緻密で繊細、確かな演出力に定評がある。
1991年「ぼくのおじさん」で神奈川戯曲賞佳作入選。
2016年「新・こころ」「Family,Familiar 家族、かぞく」、2017年「LIFE,LIVE ライフ、ライブ」(作・演出・出演)など。
他に、アート企画陽だまり ドラマ・リーディング「空の村号」(作 篠原久美子)、東京演劇アンサンブル「はらっぱのおはなし」(作 篠原久美子)等、数多く演出を手がける。




伊勢に行ってきました!

 昨年4月、「竹内浩三」の故郷伊勢に行ってきました。地元の方々は親しみをこめて「浩三さん」と、まるで親戚のように彼の事を話してくれます。そして伊勢の町の中には彼の詩碑があちこちに。出身小学校の校庭の壁にも「三ツ星さん」の詩が飾られ多くの方々に今も愛されているんだと伝わってきました。

赤門寺

 彼が生まれた5月には毎年「赤門寺」で生誕祭が開かれています。その「赤門寺」で出征前の写真に一緒に写っている彼の姪の庄司乃ぶ代さん(下の写真左)など縁の方々にもお会いできました。皆さん今回の公演の事をとても喜んで下さり、実行委員会を立ち上げて12月には伊勢市での公演も予定しています。

 彼のお墓は伊勢湾を一望できる見晴らしの良い朝熊山山頂にあります。姉・松島こうさんが、弟の命の代償として国から支払われた補償金と同額で立てたという小さなお墓、その横に「骨のうたう」の詩碑があります。弟の命はこんなにも安いのかという怒りが込められているように見えました。

「骨のうたう」の詩碑


(白木匡子 記)


出征前日の竹内浩三  写真提供:藤原書店
骨のうたう

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあわれ
とおい他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や
(抜粋)